【歴史が好きな方へ】戦国時代前の室町幕府足利将軍15人をまとめて紹介!

今回は、織田信長や武田信玄などが活躍する戦国時代の前の幕府である室町幕府の足利将軍15人を一人ずつ紹介していきます。

是非、歴史が好きな方は参考にしてみて下さい♪

初代 足利尊氏

※1338~1358

室町幕府の初代将軍。
最初は高氏といったが、鎌倉幕府を裏切り、幕府打倒の立役者となると、後醍醐天皇のイナミである尊治から一字を賜って、尊氏へ改名した。
のちに天皇との関係が悪化し、1336年に光明天皇を立てて、北朝を興す。
1338年には征夷大将軍となり、室町幕府を創始し、後醍醐天皇が吉野に興した南朝と対立した。
なお、天皇の死後、その菩提を弔うため、天竜寺を建立している。

2代将軍 足利義詮

※1358~1367

室町幕府第2代将軍。
尊氏の子。
元弘の乱では、尊氏の名代として、新田義貞とともに鎌倉攻めに参加した。
鎌倉幕府の滅亡後は、父や叔父の直義らとともに、後醍醐天皇の建武新政を一時は支持。
尊氏が後醍醐天皇から離反すると、父とともに南朝と戦った。
尊氏が没した1358年には、征夷大将軍に就任。
足利政権の基礎を固めた。

3代将軍 足利義満

※1368~1394

室町幕府第3代将軍。
義詮の子。
1392年に南北朝の統一を果たし、有力守護大名を抑えて室町幕府の権力を確立した。
1394年には将軍職を子の義持に譲り、1397年に京都北山に金閣を建立。
能楽を保護するなど、北山文化を開花させた。
1401年には明に入貢し、勘合貿易を開始。
室町幕府の政治・経済・文化の最盛期を築く。

4代将軍 足利義持

※1394~1423

室町幕府第4代将軍。
義満の子。
1394年に9歳で将軍となるが、幼少のため、実権は父の義満が握り続ける。
義満の死後は、斯波義将らに補佐され、勘合貿易の取りやめなど、独自の政策を行う。
1423年には、将軍職を子の義量に譲るが、実権を手放すことはなかった。
禅宗に深く帰依し、水墨画や田楽などの芸能を愛した。

5代将軍 足利義量

※1423~1425

室町幕府第5代将軍。
義持の子。
1423年、父から将軍職を譲られて、17歳で第5代将軍に就任した。
在任中は、隠居した父が権力を掌握していたため、実権はなかったとみられる。
生来病弱だったのに加えて、大酒飲みだったことで知られ、1425年に在職3年で父に先立って病死した。
享年19歳。

6代将軍 足利義教

※1429~1441

室町幕府第6代将軍。
義満の3男。
はじめ義円と称して僧籍にあったが、兄の死後、くじで後継者に選ばれて還俗したことから、くじ引き将軍とも呼ばれる。
1429年に征夷大将軍に就任。
永亭の乱で鎌倉公方足利持氏を滅ぼすなど、将軍の権力を強めたが、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された。

7代将軍 足利義勝

※1442~1443

室町幕府第7代将軍。
義教の子。
1441年の嘉吉の乱で、父の義教が家臣の赤松満祐によって殺害されたため、管領の細川持之らに擁立されて、翌1442年に9歳で第7代将軍に就任した。
幼年だったため、実権は細川持之や山名持豊らが握った。
1443年に10歳で死去。
暗殺説もささやかれるが、病死説が有力とされている。

8代将軍 足利義政

※1449~1473

室町幕府第8代将軍。
義教の子。
はじめ弟の義視を養子としたが、その翌年に実子の義尚が生まれたため、これを将軍にしようとして応仁の乱の一因を作った。
様々な困難が相次ぐなか、政治に対する関心を失い、1473年に将軍職を義尚に譲る。
芸術を愛好し、銀閣を建立するなど、東山文化を築いた。

応仁の乱とは?

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1478年)までの約11年間にわたって継続した内乱。
室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。
明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。
十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。

9代将軍 足利義尚

※1473~1489

室町幕府第9代将軍。
義政と日野富子の子。
叔父の義視と争い、応仁の乱の原因のひとつをつくった。
応仁の乱の最中、1473年に義政から将軍職を譲られ、第9代将軍に就任。
近江の六角高頼を討伐して、衰退した幕府の権威を回復しようとしたが、陣中で病死した。
享年25歳。

10代将軍 足利義稙

室町幕府第10代将軍。
父は、義政の弟の義視。
1490年に第10代将軍に就任したが、細川政元に将軍職を追われ、各地で13年にわたる亡命生活を送る。
後に周防の大内義興の支援のもと、1508年に将軍職に復帰。
ところが、1521年、細川政元の養子である高国と対立し、再び追われて、淡路に逃れた。
島公方とも言われる。

11代将軍 足利義澄

※1494~1508

室町幕府第11代将軍。
足利政知の子。
10代将軍の足利義稙を追放した細川政元によって、第11代将軍に擁立されたが、1508年に前将軍の義稙が復帰。
将軍職を剥奪されたため、義稙の暗殺を謀るなど、勢力を盛り返そうと画策するが失敗し、復帰できないまま1511年に死去した。
享年32歳。

12代将軍 足利義晴

※1521~1546

室町幕府第12代将軍。
義澄の子。
義稙を追放した細川高国によって擁立され、1521年に第12代将軍に就任したが、実権はなかった。
将軍の権威の回復に努めたものの、三好長慶・細川晴元らの政争に翻弄され、挫折。
嫡男の義輝に将軍職を譲り、1550年に近江穴太にて死去した。

13代将軍 足利義輝

※1546~1565

室町幕府第13代将軍。
義晴の子。
幼少期は、父の義晴と管領である細川晴元の対立に巻き込まれ、たびたび近江に逃れるという生活を送る。
1546年、11歳で父から将軍職を譲られるが、三好・松永氏らの勢力が強く実権はなかった。
のちに、形骸化した将軍職の権威を復活させようと、一時的に政治的手腕を発揮するが、松永久秀に攻められて敗死した。

14代将軍 足利義栄

※1568~1568

室町幕府第14代将軍。
堺公方義維の子で義澄の孫。
義輝が暗殺された後、松永久秀と対立する三好勢に擁立され、1568年2月、将軍に就任した。
同年9月、織田信長が義昭を立てて入京したため、これと対立しようとするが、以前からわずらっていた背中の腫れ物が悪化して病死した。
室町幕府歴代将軍のなかで、唯一、本拠地京都に入ることなく終わった将軍。

15代将軍 足利義昭

※1568~1573

室町幕府第15代将軍。
義晴の子で義輝の弟。
はじめ奈良一乗院に入り、覚慶と称したが、1565年に義輝が暗殺されると還俗して、義秋、のちに義昭と改名した。
1568年、織田信長に擁立されて将軍就任。
のち織田信長と不和になり、反信長勢力を頼って討とうとするが、1573年に京都を追われ、室町幕府は滅亡した。

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